物議を醸す話題の書『読売消滅』/元読売記者はどう読んだか

新聞社の紙面はすみずみまで論調が統一されなければならないのか?

2026年4月号 DEEP
by 中西茂 (教育ジャーナリスト)

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「タイトルだけか?」と本を閉じてしまったらもったいない

『読売消滅』(ビジネス社)とはまた物騒なタイトルである。「崩壊」を通り越して「消滅」が最近の本のタイトルの流行らしい。

著者の橋本弘道氏は<「消滅」は著者が望んでいることではない。できればそうならないでほしいと思っている>と最初に表明している。「なんだ。タイトルだけか」と、そこで本を閉じてしまってはもったいない。日本で最大の新聞社の内情から、メディアについて考える重要な論点を読み取ってほしいのだ。

またやった「適正」外し

読売新聞「創刊150周年記念特集」より

筆者は読売新聞で橋本氏の1年後輩に当たる。60歳の定年を少し残して早期退職、大学でメディアについて講じた経験ももつ。橋本氏は40年以上も読売新聞で記者として働いてきた。橋本氏も筆者も、新聞がいまよりずっと信頼、評価されていた時代を知っている。新聞社に辞表をたたきつけた立場でもないが、そんなOBが黙っていられないようなことが、新聞社内で起きているらしい。

橋本氏が『読売消滅』を執筆する引き金になったのは、昨年7月と8月に相次いだ読売新聞の誤報だという。昨年10月号の本誌も報じているが、号外まで出した石破首相の退陣を巡る誤報と、秘書給与不正受給事件の国会議員名を取り違えた誤報のことである。これほど大きな誤報が連続して起きるのは前代未聞のことだ。

読売の検証記事を読んで筆者の目に留まったのは、後者の誤報で、「今回も」紙面化する前に「適正」にかけていなかったことを明らかにした点だった。「適正」とは2014年にできた「適正報道委員会」という編集局内の組織のことだ。社内では「適正」と略して呼んでいる。

2012年のiPS細胞を巡る誤報をきっかけに創設され、独自取材の記事内容について掲載前に第三者的立場でチェックする役割を担ってきた。新聞週間の特集面などでその役割は何度も強調され、新聞協会賞を受賞した特ダネでも有効に機能したことを紙面で伝えている。

ただ運用基準があいまいなままここまできてしまったようだ。『読売消滅』で橋本氏は、かけるべき基準を明確に定めていないことの問題点を指摘している。

「今回も」と書くのは2017年に読売新聞が報じた元文部科学次官、前川喜平氏の出会い系バー通いを巡る報道も「適正」にかけないまま出稿された記事だったからだ。

1面で大展開する記事ではないが、当時の安倍政権との関わりで前川氏の立ち位置を考えると、紙面化にはもっと慎重さが必要だったというのが客観的な見方だろう。筆者はその点を、月刊『文藝春秋』で「古巣読売の前川報道を批判する」と訴えた立場である。

前川氏が店に足を運んでいたのは事実で、読売の記事は誤報ではないが、この記事によって、前川氏が買春するために店に足を運んでいたかのように受け止めている人は今でもいる。ミスリードのひとつだろう。

SNS全盛の時代の誤報やミスリードは重みが違う。「オールドメディア」の「印象操作」といった言説がすぐにネット上で飛び交ってしまう。だからこそ誤報の連発など二度と起こしてはいけないのだ。

9年も前の問題を蒸し返すことが筆者の本意ではない。『読売消滅』を通読して浮かぶ次の論点は<新聞社の紙面はすみずみまで論調が統一されなければならないのか>である。

読売新聞には自民党・政府寄りというイメージが定着しているが、『読売消滅』にもあるように、橋本氏や筆者が入社したころの紙面は自由度が高かった。「社論」という言葉が新聞社の中で頻繁に飛び交うようになったのは、この20年ほどのことだ。

筆者が担当したことのある解説面では、2010年ごろまで「対立・討論」や「論陣・論客」というコーナーがあった。立場の異なる意見の識者を並べる必要があるため、社説の主張とは違う人物の意見も紹介することになる。新聞社の主張を意識はしつつも、反対意見にも耳を傾けるコーナーだった。

いまの紙面にはそんな配慮はあまり見られない。筆者の現役時代も、最後には寄稿記事にも制約がかかるようになり、1面・2面で大展開する外部有識者の寄稿の主張まで実質的に社論扱いされた。号令一下でそうなるのではなく忖度からそうなっていったようだ。

一方、政府寄りの新聞と言われながら、文部科学省の方針に真っ向から反対しているのが、教育現場のデジタル化である。デジタル教科書の導入など、国の方針も「紙かデジタルか」という二者択一を迫っているわけではないのだが、二項対立をあおるかのような紙面展開を続けている。筆者も新聞社で禄を食んできた人間として紙の良さや大切さはわかっているが、社会がこれだけデジタル化した中で、教育現場もデジタル技術をうまく生かす方策を探るべきだと考える。

だが、『読売消滅』でも論じられているように、読売新聞は紙へのこだわりを、どの新聞社より明確にしている。「紙本主義」が徹底されているのだ。1面連載でスウェーデンの教科書がデジタルから紙に政策転換したという話題を取り上げたのが象徴的だが、北欧の教育政策に詳しい複数の識者が、そんな単純な話ではないと論じている。教育を専門に取材してきた立場からは、これもミスリードとしか思えない。

社会がこれだけデジタル化し、他の面ではデジタル化の利点も課題とともに紹介しているにも関わらず、教育のデジタル化に関しては反対の論者を繰り返し登場させている。いまの読売新聞にはこの問題を冷静に分析する紙面展開はできないだろう。

何がオールド、べらぼうめ

江戸のメディア王、蔦屋重三郎が主人公だった昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』には、「よみうり」という言葉が何度も登場した。江戸の市中で売られたかわら版を、ときの老中松平定信が情報工作の手段として使う場面だった。かわら版は読んで売っていたからそう呼ばれ、読売新聞の名前の由来でもある。もちろん『べらぼう』の「よみうり」が個別の新聞社を指すわけではないが、「読売」を皮肉っているようで仕方がなかった。

かわら版をルーツにもつ紙の新聞が、デジタル化によって危機にさらされていることは言うまでもない。三つ目の論点は新聞のスタンスと経営の問題である。

現実に新聞が次々と「消滅」している米国では、電子版で成功を収めたニューヨーク・タイムズが一人勝ちとされる。ただ、いまの読売経営陣には、これが成功とは映っていないようだ。一方で、読売新聞はワシントン・ポストの大規模なリストラを大々的に報じた。この経営難もまた政治的立ち位置の結果であるらしい。報道機関であり続けるために経営基盤という足腰が大事であることは言をまたない。ただ報道機関としての佇まいもまた常に論じられるべきだろう。

筆者は橋本氏と同じ県を初任地にもつ関係でもある。ただその点を抜きにしても、橋本氏は古巣の内情を憂いて声を上げた同志だと思っている。筆者も新聞が簡単に「消滅」するとは思わない。新聞がなくなった先にあるのは混乱した情報が飛び交う社会だ。OBとして、蔦重ばりに「何がオールドメディアだ。べらぼうめ!」という思いが強い。

現役の中にも悩んだり息苦しさを感じたりしている記者はいるはずだ。そんな彼ら彼女らが小さくても声をあげてほしい。新聞が「消滅」してはならないからこそ呼びかける。

著者プロフィール
中西茂

中西茂

教育ジャーナリスト

1983年に読売新聞入社。社会部主任、解説部次長を経て編集委員。2005年スタートの長期連載「教育ルネサンス」を立ち上げるなど、記者生活の3分の2を教育記者として過ごした。論説委員なども経験し、2016年に退社。玉川大学教授としてメディアや教育政策を講じた。現在は教育ジャーナリスト、星槎大学客員教授。

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